2024-09-28

日常の中の宇宙 - 朝食から始まる哲学的遍歴

PV
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朝陽が東の空を染め上げる頃、私は習慣的にキッチンへと足を向ける。エスプレッソマシンから立ち昇る芳醇な香りは、プルーストの「失われた時を求めて」における紅茶に浸したマドレーヌの香りのごとく、幾重もの記憶の扉を開く。
トーストを焼く間、窓外の景色に目を向ければ、ヘラクレイトスの「万物は流転する」という言葉が脳裏をよぎる。刻一刻と変化する光の様相は、まさにモネの「ルーアン大聖堂連作」を彷彿とさせる。そして、この瞬間的な美を捉えようとするまなざしこそ、俳人松尾芭蕉が「古池や蛙飛び込む水の音」で表現した、はかなさの美学ではないだろうか。
パンに塗るジャムを選ぶ瞬間、私は突如としてウィトゲンシュタインの言語ゲーム理論を思い出す。「イチゴジャム」という言葉の意味は、社会的な約束事によって成立しているに過ぎず、その赤い色と甘酸っぱい味わいが、プラトンのイデア論における「イチゴのイデア」に近づこうとする人間の永遠の試みなのかもしれない。
コーヒーを啜りながら新聞に目を通せば、そこには現代のバベルの塔が築かれているかのようだ。政治、経済、文化、それぞれが独自の言語体系を持ち、互いに交わることなく高みを目指す。これはT.S.エリオットの「荒地」に描かれた、意味の崩壊と再構築の過程を想起させずにはいられない。
朝食を終え、身支度を整える間にも、思考は止まることを知らない。ネクタイを選ぶ行為は、ブルデューの「ディスタンクシオン」における趣味と階級の相関を思い出させ、靴を磨く動作は、禅の「平常心是道」という教えと重なる。
外に出れば、そこは喧騒に満ちた都市の風景。ベンヤミンの言う「アウラの喪失」が進行する一方で、そこかしこに散りばめられた広告は、ボードリヤールの「シミュラークルとシミュレーション」の具現化のようだ。電車の中で耳にするスマートフォンの通知音は、ジョン・ケージの「4分33秒」を想起させ、日常のノイズの中にこそ音楽があることを教えてくれる。
オフィスに到着し、パソコンの電源を入れる瞬間、トフラーの「第三の波」が現実のものとなった情報社会の只中に身を置いていることを実感する。デジタルの海に漂いながら、私はボルヘスの「バベルの図書館」を思い浮かべる。無限の情報の中から、真に必要なものを見出す能力こそが、現代を生きる我々に求められているのだろう。
昼食時、同僚との会話の中で、サルトルの「他者とは地獄である」という言葉が頭をよぎる。しかし同時に、レヴィナスの「他者の顔」の概念も思い出し、他者との関係性の中にこそ、自己の存在意義があるのだと再認識する。
午後の仕事に没頭する中、ミハイ・チクセントミハイのフロー理論を体現するかのような没入感を覚える。そして、その充実感の中に、アリストテレスの言うエウダイモニア(幸福)の一端を見出す。
帰宅途中、夕暮れの空を見上げれば、そこにゴッホの「星月夜」のような感動が広がっている。カントの崇高の概念を体感しつつ、同時に西田幾多郎の「場所的論理」を想起する。我々は風景を見ているのではなく、風景の中に存在しているのだ。
家に戻り、夕食の準備をしながら、レヴィ=ストロースの「料理の三角形」を思い出す。文化としての料理が、自然と文化、生と死を媒介する存在であることを意識しつつ、一汁三菜を整える。
食事を終え、くつろぎのひとときを過ごす中で、ガストン・バシュラールの「空間の詩学」に思いを馳せる。我が家という小宇宙の中に、無限の想像力の源泉を見出す。
就寝前、ベッドに横たわりながら、フッサールの現象学的還元を試みる。日常の雑多な経験を括弧に入れ、純粋意識の流れに身を任せる。そして、夢の中へと滑り込んでいく瞬間、ユングの集合無意識の海に漂う自分を感じる。
かくして、一日が終わる。それは単なる24時間の経過ではなく、哲学、芸術、科学、文学が交錯する壮大な知的遍歴であった。明日もまた、新たな発見と洞察に満ちた一日が始まるのだろう。ニーチェの永劫回帰を胸に、私は瞼を閉じる。